今日はもう一つ、「がんばったな私。よかったな私」と思うことがあったので、そのことを書きます。
こちらも前にちらりと書きましたが、趣味のサークルをフェイドアウトしそうになっていた友人を、小まめに連絡を入れるなどして引きもどしたことがありました。
これは、私の中では「自分、すごいやん!」と思う、ちょっとした事件でした。

そしてそのサークルで先日、グループ展を開催し、無事に終了しました。
するとその友人が、「はるさんのおかげで、ここまでがんばってこられました。はるさんがいなかったら、このグループ展参加にこぎつけられなかった。ありがとう。感謝します」という、熱いメッセージをくれたのです。
それで私は、
「ずっと一緒にがんばってきた仲間だから、どうしてもグループ展も一緒に参加したかった。だから今、とてもうれしいです」と、
さらに熱いメッセージで返しました。
友人と心が重なっているように感じて、じーんとしました。

それにしても、なんという、なんという、恥ずかしげもない直球勝負の熱い友情のやりとりでしょう。
まるで青春の仲間のようではないですか!!
実は私、今人生で初めて、友情や仲間との絆を感じています。
10代の頃、つまり本当の青春時代には、誰とも友情や心の絆を感じるような関係を築くことができませんでした。
さらに20代も30代も、できなかった。そして40代も後半になった今、初めて人と友情で結ばれ、こんな熱くスイートなやりとりができて、本当にうれしいです。
長い間、「こういう友達が欲しいな」「こんな仲間が欲しいな」と思っていた、そのとおりの仲間と友達を今、もっていると感じます。

とはいえ。
ときおり、「でも、一時は仲良くなっても、離れていくもんだよね、友達って。近づきすぎるとそれだけ、嫌なところも見えてくるし」とネガティブな思いもよぎります。
そのときは、伝家の宝刀、「自己受容の儀式」の出番です。
「あー、私、そんなふうに思っているんだね」とちょっと距離を置いてネガティブな感情を見つめ、「そうだよね。私、友人関係でたくさん傷ついたり、傷つけたりしたもんね。そりゃ、そう思うよね。可愛そうだったね、私。つらかったよね、私。でももう大丈夫、大好きだよー私」。
本当に、私はこれまで何度も、友人関係で悲しい思いをし、傷ついてきました。
だから、「友人関係とは最後は壊れるもの。しょせんそんなもの」という思い込み、フィルターができている。
そして「しょせんそんなもの」というすげない言葉でふたをした、その奥にある本当の感情は、悲しさや寂しさです。私は友人関係でつまずくたびに、悲しかったし、寂しかったし、つらかった。すごく傷ついた。
自己受容が進んできた今は、そんな自分にすぐに気付いて、ぎゅーっと心の中で抱きしめて癒してあげることができます。

さらに、自分が「しょせんそんなもの」フィルターをかけているんだと気づいた今は、そのフィルターを外すことができる。
そして、違うフィルターを選んで、違う未来を選ぶことができる、のだと思います。
40代になった私は、友達と10代、20代、30代とは違う付き合い方をして、違う関係を築いていけると思います。
さらに言えば、友達と疎遠になったり、離れていったとしても、そのことの受け止めが、以前とは違ってきています。以前は人とうまくいかなくなると、「私の人間性が悪いせい」と思って落ち込んだり、「相手のせい」だと思って恨んだりしていました。とてもしんどかった。
でも今は、何であれそれでいいと思える。「私に悪いことは起こらない」「すべてのことに意味がある」と自然に思えるから、疎遠になるのもけんか別れするのも、それはそれで構いません。
そういえば、自己受容が進んでこの1年、対人関係がすごく楽になったし、私自身がタフになってびくびくしなくなった。そんな実感があります。

というわけで。
人よりずいぶん遅れて、青春時代がやってきた、というお話でした。今の私なら、一生続く友情を手に入れられるような気がしているのです。一生っていっても、10代の頃と違って、もう先がだいぶ短いですし。あれ、自虐で終わるのかこの話。